2008年8月25日月曜日

003 フラガール


監督:李相日
主演:蒼井優、松雪泰子

2006年 日本


感動しました。

根本的なストーリーは非常にクラシックでオーソドックス。
脚本家を目指す人には基礎中の基礎として勉強になる要素がたくさん詰まっていると思います。そこに昭和ノスタルジーと、相反するハワイアンというキーワードを入れたのが実に上手いですね。

この作品の主人公は、「見捨てられた人々」です。

舞台となる福島県いわき市は炭坑の町。
時代の流れで炭坑は徐々に閉鎖され、労働者はどんどん首を切られていきます。

松雪泰子さん演じる、ダンスの先生は、どうやら東京の劇団で上手くいかずに福島県に流れ着いた負け犬。彼女からダンスを学ぼうとする、蒼井優ちゃん演じる少女も、夢を追いかけるために、なかなか理解してもらえず、母親から見捨てられてしまいます。

というように、登場人物の多くが、「見捨てられた人々」なんですね。
ここに、2006年の観客の「共感」が詰め込まれているのではないかと思うんです。

2001年から始まった小泉改革は、蓋を開けて見れば、弱者切り捨ての二極化社会を作り上げました。つまり、2001年以降、たくさんの人が「見捨てられて」しまったんです。

二極化社会は、価格の二極化も作りました。
2001年以降、売れるものは極端に高いものか、極端に安いもの。
プライベートブランドの商品が注目されたり、アウトレットモールが乱立したり、今では「激安」の商品が山のように並んでいます。

今もなお低所得者層が増えている現在、「見捨てられた人々」は巨大な「ターゲット」であり、「マーケット」じゃないかと思うんです。しかし、この「見捨てられた人々」をターゲットにした安い商品も、価格競争だけでは市場で勝ち残れない時代がきていると思います。


そこで勝ち残っていくのは、

見捨てられた人々が背水の陣で作り上げた商品

であったり、

見捨てられた人々が最後の想いを賭けたサービス

というような、ストーリーのある商品やサービスが、人々の共感を誘う差別化要因になるのではないかなー、と思います。


でも、本当は、「見捨てられた人々」のいない世の中を作りたいものです。
個人的には二極化反対です。



 

2008年8月15日金曜日

002 スタンドアップ


監督:ニキ・カーロ
主演:シャーリーズ・セロン
2005年 アメリカ

とっっっても良い作品でした。
史上初のセクハラ裁判の発端になった炭坑会社での戦う女性を描いたストーリーですが、脚本、演技、演出、映像、、、と、とってもハイクオリティで、そして「泣ける」社会派映画としてうま〜くまとまっていると思います。特に女性は必見ですね。

この映画からは、メタファーの大切さを改めて学べました。

その昔、アリストテレスが

「思考の最上の形式は、論理でも分析でもなく、メタファー(暗喩)である。メタファーの天才が本当の天才。」

というような事を言われたそうですが、どうやら、多くの人に支持される物事は、メタファーという概念と、切っても切れない縁があるような気がします(一番の代表例が「太陽」を使った日本国旗かもしれませんね)。


そして「スタンドアップ」はたくさんのメタファーをストーリーにうまく食い込ませている点が、とてもクリエイティブだと思いました。

原題の"North Country"という、寒い雪国で行われる非人間的な行為、そこにいる炭坑夫の男達は、石炭のようにどす黒く、古くて頭が固い。日本版タイトルの「スタンドアップ」は、本編中のとても重要なシーンの内容ですが、様々な立場のキャラクターにとっての「スタンドアップ(立ち上がる)」だったりするわけですね。

シャーリーズ・セロン演じる主人公の女性にとって、父親のいない息子の存在は嫌な過去を思い出させる存在であったり、、、、という感じで、ある物事・シーン・存在に、本来の意味とは別の意味が存在している事が、ひじょ〜に多い映画のような気がしました。その他にもたくさんあったんですが、、、、もう忘れてしまいましたね(笑)。

このように、映画というのはたっくさんのメタファーから出来上がっていて、それは何も映画だけでなく、生活の中には無数のメタファーがあり、無意識のうちに、「それってイイ!!」となる事には、メタファーが絡んでいる事が多くあります。

ようやく始まったオリンピックに多くの人が熱狂するのは、それが単なるスポーツではなく、夢や感動と言った別のメッセージがあるからであり、多くの人が長年のローンを組んでまで家を購入したいと考えるのは、それが「住む場所」以上の論理と感情という「メタファー」が渦巻いているからですよね。


このメタファーという概念はビジネスでも全く同じで、車は人によって別の意味があり、チョコレートに告白の意味が付加されたり、、、という感じで、メタファーを意識した商品開発、企画、ネーミングなんかを考えてみると、役立つかもしれません。

まずは机の周りにあるメタファーを探してみませんか?
結構、良いアイデアが浮かぶと思いますよ。



2008年8月5日火曜日

001 崖の上のポニョ

原作・脚本・監督:宮崎駿

2008年 日本


「表面的にはかわいく見えるけど、実はとても恐い映画だ」と友人に言われ、見に行ってみました。

なるほど。。。。これは確かに非常に恐い映画です。

まるで満面の笑みで「人類は滅亡しますよ」って言われるみたいな()。。。

この映画は宮崎作品の中では異色作と言われるでしょうけれど、時間が経つに連れて評価されるようになる作品ではないかなぁとも思います。

やっぱり宮崎監督の創造力には驚かされます。

僕もそれなりに映画を見て来ているつもりですが、アイディア、コンセプト、構成、、、その多くが今までこの世に存在していなかったものであり、「まだまだあるかぁー」と思わされます。

この物語は、当の昔に「人間」というレベルを超えて海の神になった「藤本」 (なぜか日本人名、笑)と女神の間の「神の子」であるポニョが、神という身分を捨てて愚かで残虐な人間になり、人類滅亡の危機を救う「神話」なんだと思います。

その重いテーマを「ポーニョ、ポーニョ、ポーニョ、さかなの子♪」な〜んていう歌と共に、絵本タッチでかわいらしく描いているので、「ポニョが人間になる話」として単純に片付けられる可能性はあるかもしれませんが、実のところは宮崎版「ノアの箱船」で、シーン、キャラクター、それぞれに様々な解釈が出来るので、この作品は見れば見るほど、左脳と右脳の情報交換が激しくなりそうです。

この作品で特に印象に残ったのが、大洪水ですべてが水の中に埋もれてしまったのに、当の人間たちは全く危機感がなく、ごくごくフツーなんですよね。

これはおそらく、環境が危機に瀕しているのに、全く気づかずにのほほーんと過ごしている現代日本人そのままなんですよね。

こういう表現方法があるのかーと、個人的には結構衝撃を受けました。

この作品では、宮崎監督流の「娯楽映画理論」と、映画が人に与える影響について、再び考えるきっかけになりました。

宮崎監督は対談本の『風の帰る場所』(発行:ロッキング・オン)において、「真の娯楽とは、入り口を広くし、敷居を低く設けておいて、出口では期待していなかった方向に観客を啓蒙すること」というような事を書かれていました。

僕の中ではこの思想が今でも「娯楽映画のあるべき姿」として哲学になっているんですが、宮崎監督の巧妙なところは、一見、子供向けの作りをしていて(=広い入り口を設けておいて)、実のところ、深〜いテーマを忍ばせ、その哲学を優れたイメージで子供達の潜在意識に植え込もう(=期待していなかった方向に観客を啓蒙)という試みでしょう。

彼の作品はいつも概ねそうですが、かわいらしい作りをしつつも、中身はしっかりとした現代人批判であり、これからの人類のあるべき姿を明確に描いている(結局は神頼みな事が多いですが)

これを今の子供たちが見たら、そのかわいい外見から、ビジュアルを素直に受け入れると同時に、裏のテーマもしっかりと脳の深いところに植え付けられるんだと思うんです。

よくよく考えれば、彼が20数年前に発表した「ナウシカ」と「ラピュタ」も冒険娯楽活劇の様相を呈しながら、実のところは現代人批判と環境保護を訴えており、このテーマを子供の頃に潜在意識に植え付けられた僕ら、70-80年代生まれの多くは、2008年現在、環境に対する意識が上の世代よりも高くなっているんじゃないか、、、と言うのが僕の印象です。

宮崎監督は天才的に表現方法が上手いから、見方を変えれば究極のマインド・コントロールになるわけですね。

これはちょっと危険な事だと言えなくもありませんが、最高級の表現方法という言い方もでき、分かり易い入口と明確なテーマを持った出口を用意する、という宮崎流娯楽思想は、多くのビジネスマンにとって、商品・サービスを顧客の潜在意識にアピールするための重要なヒントが詰まっているのではないかなーと思います。